こんなに大きな恵みをなおざりにして……


 「ヘブル人への手紙」を学んで、その復習
 1月からすでに二ヶ月の間「ヘブル人への手紙」を学びました。今日は今まで学んだ復習を兼ねて、最も大切な聖書の真理を学びたいと思っています。

1−イエス様は「神の栄光の輝き(反映)、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられる」1:3
 最近、ヨハネによる福音書やヘブル人への手紙がとても気になって調べています。共観福音書は、「クリスマスから」または洗礼からのイエス様の物語が書かれています。
 A.D.70年にはエルサレムが陥落し、イエス様が預言したようにイスラエルは国を失い流浪の民となりました。
 その頃にはギリシャの哲学、ローマ帝国の政治体系の中に、初代教会も巻込まれ、イエス様の直弟子たちの多くが殉教などでいなくなり、ギリシャ人やローマ人などが増えてきました。
 初代教会の中でも「割礼問題」などで、ユダヤ教の儀式とキリスト教のでユダヤ人たちは悩み、異邦人たちでクリスチャンになった者たちが、旧約聖書を無視して異教の哲学や思想と混合する問題もありました。
 そこでヨハネはイエス様がクリスマスに受肉する以前から「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」として、ロゴス(ことば)として父なる神様と一つであり、天地創造の前から、永遠の昔から共におられた三位一体の神として、「はじめに、神が天と地を想像した」お方こそ、「光りあれ!」と言われると「光りがあった」ように、ことば(ロゴス)として、ヘブル書も同じように「神の本質の完全な現れであり、その力ある御言によって万物を保っておられる」1:2-3と教えています。
 単なる「偉大な聖人」としての宗教家ではなく、神が御子によって救いが完成されたことを語ろうとしています。
2−こんなに素晴らしい救いをなおざりにするな!
a,人間論…人間は「万物の霊長」と言われているが聖書ロマ書1:20-25には、「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」20と語り、25では「彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」と宣言しています。
 「キリシタン考古学」の学者として評価されている先生と話しました。彼に「籠に入れた魚を持つマリア像」の写真を見せて、結城弥平次の子孫の家で写したことを説明すると、彼は「それが何故キリシタンと結び付くのか」と言うので、イクソスの説明をしました。魚はギリシャ語でιχθυςと書き、頭文字はイエス・キリスト・神…を表しているのでローマのカタコンベには沢山魚の絵が描かれていることを話しました。迫害時代にクリスチャンの暗号として使われていた事を語りました。当然知らなければならない真理を学ぶ必要があります。人は神を否定していても、心の片隅には「神のかたちに似せて造られた」神の子供としてのDNAが、死を予感した時、心の中でよみがえってくるのです。

b.神に至る…内村鑑三は『求安録』で「人間は、素晴らしくなれば天使のごとく輝き、堕落すれば、地獄の餓鬼のようになってします」と言っています。ルカ福音書では3:38で「 エノス、セツ、アダム、そして神にいたる」と、すべての人間は「神様の生命を与えられた『神の子供』である」ことを知らなくてはならない。

c.悪魔の奴隷…「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」2:14-15
 「神様と一つ」であった人間が、迷いの人生、罪の支配の中で苦悩
している姿こそ、「お父さんのところへ帰ろう」と、放蕩息子が父に抱かれたように、「悪魔の奴隷になってがんじがらめに縛られていた者」をイエス様は十字架の上で私たちの身代わりになって、私たちの救いを完成させて下さったのです。

3-神様の安息に入ろう
 「彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」3:19
a.新約の時代は「安息にはいれなかったのは、不信仰のためであった」 ことがわかります。
b.「信仰によって結びつけられない」4:2
 「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」と、沢山の聖書の御言葉を学んでも、「信仰によって、結びつけられない」と駄目です。
c.「私たちの公に言い表している信仰をしっかり保とう」4:14
 「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」と言い、さらになる「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」4:16と、安息に入る信仰の一歩を教えています。

「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」ヘブル2:11-12