エス様の御胸に寄り添っていますか?
                       ヨハネ福音書1:9-14

 「すべての人を照らすまことの光りがあって、世に来た。彼は世にいた。世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」9
 パウロはアテネのパルテノン神殿の入り口の前にある、アレオパゴスの評議場で路行く人々に「神は我々一人ひとりから遠く離れておいでになるのではない。我々は神のうちに生き、動き、存在しているからである」と説教をしました。(使徒17:27-28)
 また、ローマの市民たちにも「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ローマ1:20)と言っている。
 ユダヤ人は選ばれた神の民としてメシヤを待っていましたが、しかし、「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受入れなかった」11と、神様は我が民であるユダヤ人を人々の救いの働き人となってもらうために、彼らは受入れなかっただけでなく、十字架に架けて殺したのです。しかし、12節で、「しかし、彼を受入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、神の子となる力を与えたのである」12と教えています。
 そのためには、第一に「信じる」事です。もう一つは、信じて「受入れる」という心のあり方で、「神の子供となる特権」が約束されているのです。
 すべての人を照らす「まことの光」を、私たちは謙虚に「受入れ」ると、私たちも「光りの子」となるのです。

 

 すべての人を照らす真の光りを迎え入れよう!

 神様が独り子を送り、愛、いのち、光りとしてこの世に来られたのに、この世の人はこの方を受入れようとはしませんでした。

 

 有名な説教者スポルジョンが、借金で首が回らない人を助けようと思い、大金を持ってその人を訪問した時の事です。せっかく助けに来たスポルジョンを、その人は借金取りが来たと勘違いし、しっかり戸を閉じ息を殺してスポルジョンが帰るまでがんばっていたそうです。
 私たち人間は、神様に対して同じ態度を取る事が多いのではないでしょうか。
 私たちの救いのために、ご自身の御子をさえ与えてくださった神様が、あなたの救いのために、幸せな人生のために、御子のみならず、万物を賜らないことがあるでしょうか。