神様の聖霊に満たされた人生
マルコによる福音書1:9-14

 

水のバプテスマと聖霊のバプテスマ

 イエス様はガリラヤのナザレの村から出て来て、「バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられ」9ました。洗礼の時、水の中から上がるとすぐに、「天が裂けて“御霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」10のです。

 すると、天からの声が聞こえて来ました。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」11という天のお父様の語られた御言葉が心の中に聞こえて来ました。

 クリスチャンが必ず受ける水のバプテスマ(洗礼)は、「キリストと共に死ぬ」ことを意味しています。

 日本でも「水に流す」という言葉があります。三月三日の節句、『ひな祭り』は「流し雛」が有名ですね。

 「罪と汚れ」から、自分の娘が解放されるために、身代わり(雛形)の人形が流され、自分の娘が裁かれたり、呪われたりする事のないように雛祭りが行われているのです。私が昔、“福音教会だより”というスエーデン・オレブロミッションの機関誌に「日本風土に於ける『福音の影』」という連載を頼まれて長い連載を発表しました。

 バプテスマは、「バプタイズ」(浸ける・ひたす・漬け物にする)の意味がある事を学び、水に完全に浸けられると、それは「自己の死」を意味する言葉です。

 「古き自己の死」を洗礼で現し、ナザレの大工ヨセフの子から、イエス様は本来の「人類の救済者」としてのメシヤの活動の一歩が、30才にしてここから始まります。

 ここからイエス様の公生涯と言われるメシヤとしての働きがが始まったのです。「古い者は過ぎ去った。すべてが新しく、上からの(天的な)聖霊の御力によって、新しく生まれ変わる」ことが、クリスチャンとしての一歩になります。あなたの古い過去からの決別としての死を体験してください。神様から「愛されている」との天からの御声を聞き取ってください。

 

 

聖霊に送り出された体験を無駄にしないで…。

1−荒れ野に送り出され

 「神様に愛されているよ」との御声を聞いた人にとっては、神様の御霊の導きで荒れ野(荒涼たる砂漠)へ送られても、他の福音書は4040夜の断食があっても、悪魔の誘惑があっても、野獣がうろついていても、決して負ける事はありません。聖書は「御使いたちが〈絶えず〉仕えていた」13(詳訳)と書かれています。

a、 私たちを愛してくださる神様の御手の中で御言葉に従って進む  時、子供達がスリル満点の遊園地の怖い乗り物に乗る様なものです。私たちの人生の荒れ野の体験は、温室育ちの人間にはできない、気骨の有る訓練された者として、後の日には必ず成功するのです。

 神様の訓練は、ヘブル書12:11ヘブルにあるように、「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」のです。

 

b   天使たちが〈たえず〉仕えていていた

  殉教者の死の時にも、ラザロの死の時にも、天使が〈たえず〉仕えて守ってくださるのを、あなたの信仰の目で見てください。

 森永製菓の創立者、森永太一郎氏は死ぬ程大変な中にあった時、信仰の目が開かれて、自分と会社は神様が天使を使わし守っていてくださる事を理解できて、苦難を通して神様の守りを感じて、昔の森永のマークは、天使がT・M(タイイチロウ・モリナガ)のTをしっかりと握りしめて守ってくださる事を表しているのです。

 あなたも,神様はしっかりと守り、握りしめていてくださいます。

 「あなたは高価で尊い」と、神様はあなたの価値をあなた以上に認めて評価してくださっています。

2−ガリラヤに行き神の福音を宣べ伝える

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい!」15とイエス様は宣教を始められたのです。

 私たちの教会も、神様が自由に福音を宣教する時が与えられました。飯盛山城でのキリシタン宣教が爆発的に日本に広がる起爆剤になったように、私たちがキリスト教の「日本での福音化」の要の教会として位置を築こうとしています。

 

 最初の新約聖書の福音書は、マルコによる福音書から始まります。野崎に教会を最初に「開拓伝道」を始めた自負を持っている私たちですが、この「キリシタンの聖地」・「日本のリバイバルの発端になった地」として、私は語って来ました。確実にキリシタンのムーブメントが始まっています。野崎周辺に雨後のタケノコのように教会が増えて来ました。

 この野崎からの「福音化運動」の相乗りの人々に対して、本当の福音を伝える責務を感じています。四年前からの飯盛城下に於けるキリシタンの意味付けを、この地域の歴史を愛する人々と共にシンポジュームを通して学んできました。

 イエス様は、公生涯に入られ40日の断食後に、ガリラヤ湖の畔で悔改めをせまる宣教師を始めました。そしてその働きを定着させるために、ぺテロやヨハネ、ヤコブ、アンデレたち、ガリラヤ湖の漁師たちを『人間を取る漁師』として選び訓練をしました。

 

 私たちも『人間を取る漁師』として、イエス様に招いていただきましょう。そして訓練された器として、イエス様の生命と血をいただく生命共同体・神様の家族となってこの群れの成長を祈りましょう。