【2018年2月25日 聖日礼拝説教要旨】
説教:フェラン・シェーン牧師 聖書箇所:マルコの福音書7章24~30節
この箇所の一番のポイントは「信仰」である。
この場面のツロの地方では偶像礼拝をしていて、このスロ・フェニキヤ生まれの女性もユダヤ人から見ると異邦人の女性であり、見下されている存在であった。彼女はイエスさまのことを聞いてすぐにやって来て、イエスさまの足元にひれ伏した。彼女は自分の娘から悪霊を追い出して下さるようにイエスさまに助けを求めに来た。
イエスさまは「子どもたち」であるユダヤ人が福音を受け入れて他の人々に伝えることを大事なこととしていたので、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」(7節より)と言った。大多数の人はイエスさまの発言で怒って帰るかもしれないが、この女性はイエスさまだけが治せるという信仰があった。聖書の知識は薄かったかもしれないが、イエスさまを信じる気持ちは人一倍あったのだ。彼女は「主よ」とイエスさまに言い、自分は「小犬」だと完全に謙遜になって、小犬である自分もパンくずを食べる権利があると主張した。イエスさまは彼女の信仰に驚き、悪霊は娘から出て行ったことを伝えた。
この話で私たちが学ぶことは【彼女の信仰】である。人生には神さまを信頼するのが難しいことも多いが、私たちの思いと神さまの御心が違っていてもイエスさまを信頼することが大切である。
次に学べるのは【彼女があきらめなかったこと】。イエスさまは彼女の願いにすぐに答えなかったが、彼女は続けて、恐らくますます声を大きくして、イエスさまに助けを求めた。
イエスさまは彼女をうるさいとは思わず、心の中で彼女を励ましていただろう。「あきらめないで、もっともっと助けを求めなさい。自分の思い描いていた答えが来なくても絶対にあきらめちゃだめだよ」と。
さらに【謙遜】を学ぶことが出来る。この女性はイエスさまの前にひれ伏し、へりくだった謙遜な信仰を持っていた。彼女は自分が小犬だと言われても怒って帰ったりせず、空っぽで無に等しい状態でイエスさまに助けを求めた。
私たちもイエスさまの前に謙遜でひざまずける信仰を持ちたいものである。私たちはみな死に値する罪人であり、何も受け取る権利がない者である。しかしその何もない状態でイエスさまのもとに行き、自分は何もささげるものはない、私自身しかないけれどもあなたをあがめます、と言えるような信仰をイエスさまは私たちに求めているのではないだろうか。
彼女は謙遜なだけではなく、焦点がイエスさまに当たっていた。イエスさまだけが自分の娘を治せる方だということを分かっていた。イエスさまにひれ伏して何度も何度も助けを求めた。私たちにも家族や事な友達が大変なことになって、自分では対処できない問題があるかもしれないが、そんな時、イエスさまにリクエストし祈っていただきたい。答えがすぐに与えられることはなくてもあきらめないことである。イエスさまの時に私たちに答えが与えられる。
最後に学べることは、彼女は【確信を持っていたこと】だ。イエスさまが絶対に答えてくれるという自信があり、疑いがなかった。その証拠に、娘から悪霊が出て行ったと言われた時に疑うことなく、そのままイエスさまがそうしてくれたのだと確信して帰って行った
聖書によると小さなからしだね一つの信仰があれば山をも動かせるのである。
私たちは神さまが聞いて下さっていると確信しているだろうか?イエスさまだけがすべてであり、十分に満たして下さる方だという確信はあるだろうか?この女性にはその確信があり、同じ事を記述しているマタイの福音書15章28節で、イエスさまは彼女の信仰を立派だと言っている。
私たちもこの女性のような信仰を持つべきである。彼女はイエスさまだけが道であると分かっていた。私たち一人一人はパンくずの恵みを受け入れる権利がある。そして私たちは小犬どころか、 神さまの子どもとして、福音の恵みを受け入れる資格があるのである。