『中風の者の癒しに学ぶ』
                        マタイによる福音書9:1-13

                            〈マルコ2:3-12〉

  信仰ある友を持つ祝福
 「四人の人が、担架で中風の男を(イエス様のいる所へ)運んできました。群衆をかき分けて中に入ることもできません。そこで、四人の友は病気の友をみんなで担ぎ、屋根に登り、そこに穴を開けると、そこから病人を担架に乗せたまま、イエスの前へ吊り降ろしました。(マルコ2:3)
 ここで教えられることは、
1-信仰の友を持つ祝福……私が献身して神学校に入った時、友人になった二宮先生と共に働いていたペテソン宣教師が、「神田さん、あなたのために祈ってくれている人はいますか?」と尋ねました
 母教会を失い一人で伝道し、単立の教会を開拓し始めていた私は「誰もいません。お袋ぐらいかなぁ」と言うと、先生は私のために、スウェーデンのキリスト教新聞に、「日本の神田という神学生のために祈ってください」と頼んで書いてもらったそうです。マリヤ・アラードというお婆さんのクリスチャンが「神田さんのために祈っていますよ」と手紙を書いて送って来てくださいました。毎年、クリスマスには必ずクリスマスカードとクローネ(スウェーデンのお金)が1000円程同封してありました。お金の問題ではなく、スウェーデンの年金暮らしのお婆さんが、見た事もない私のような日本の若い献身者のために祈っていて下さっていたことをクリスマスごとに思い出し感謝しています。
 マリヤ・アラードさんが天国に召されるまでそれが続きました。
 あなたには信仰の友がいるでしょうか。私たちは「自分一人でここまでやって来たのだ」と高ぶることのないように、中風の人の信仰だけではなく、この友人たちが「何とか病気の彼をイエス様の所に導き、イエス様に治していただこう」と、友情富んだ友が信仰を込めて屋根をはがしてまでイエス様との出会いを完成させたのです。
2-熱心な信仰は行動に出て来ます。
 病人の友人たちは、「屋根に登り、屋根に穴を開けて」まで行動したのは、イエス様の奇跡を期待し信じていたからです。自分たちの友を「必ず治してもらえると、堅く信じて疑わない彼らの信仰を御覧になって、イエスは中風の男に、『あなたの罪は許されました』と言われました」5。
 屋根をつぶしてまでイエス様に中風の友人を癒してもらいたいとの願いが、イエス様に伝わったのです。
 ※ユダヤ人は、「すべての病気は「罪の結果」だと思っていた。
  故に、「罪が許されなければ病気は治らない」と思っていた。
   ●ラビ・アミ「死の原因には必ず罪があり、苦痛の原因には必ず罪過がある。
   ●ラビ・アレキサンダー「病人はそのすべての罪が赦されるまで、健康になることは

    できない」と教えています。 
    現代の医学でも、肉体と心と精神的なバランスの中に、健康が維持されていること

    を教えています。


 3-十字架の上で「完成した(テテレスタイ)」と宣下したイエス様
 「さあ、元気を出しなさい。私があなたの罪を赦したのですから」2とイエス様は宣言しました。
 人間には「肉体・精神(心)・神様の霊的いのち」が宿っています。アダムがエデンの園で罪を犯してから、原罪が付きまとっているのですが、第二のアダムであるイエス様が、十字架の上でその問題を解決してくださったのです。ここに新約聖書の十字架の救いがあるのです。これを十字架の救いを完成する前に、イエス様は公生涯の中でこれを予告していたのです。
 だから、中風の仲間を救おうとして、皆が協力してイエス様の所に導いたように、イエス様の癒し、救いを彼らは経験しました。
 同時にユダヤ人の指導者たちは、イエス様を十字架に追いやり殺すための画策を行なった者たちのように、「なんて罰当たりなことばだ!まるで自分が神だと言っているようなもんじゃないか。」ユダヤ人の指導者のある者は、腹の中が煮えくる思いでした。3と、イエス様が偽善的な宗教者の心を見抜いていました。

4-ここで学ぶこと
 中風の者は自己の病気は自分の罪のためであることを認め、イエス様が罪を赦して下さり、イエス様を通して、神様と和解できたことを喜んだのです。
 彼はここまで来たら自然と癒される事がわかったと思われます。信仰の人は、原因さえ、解り解決すれば、結果を見ずとも、神様を讃美するのです。

 最後の結論まで証明されなければ理解できない人は悲しむべき人達です。見ずして信じる信仰こそ幸いな信仰です。