元和大殉教の勇者・三箇アントニオの信仰

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お早うございます。野崎キリスト教会の神田宏大です。
 今日は河内キリシタンのリーダであった三箇頼照サンチョの孫・三箇アントニオの信仰についてお話しします。彼は三箇の教会が近畿地方で最も栄えていた1569年ごろに飯盛山の麓で生まれました。きっと復活祭の時、深野池で祝われていた復活祭の水上パレードの船に、城主である祖父と共に乗って楽しんだことと思います。
 1581年にアントニオは神学生でしたが、巡察師バリニヤーノは、「彼は不器用で、大した人物ではなく、頭を患っていた」と記述しています。アントニオはセミナリオから退学処分になったようです。また、「日本キリシタン宗門史」を書いたパジェスは、彼の後に残した歴史的な業績を知って、「九歳の時から、ある教会に奉仕に上げられ、その後、司祭志願者の資格でイエズス会に入った。病身のため、やむなく会を出た。彼は結婚し、伝道士の職を守った。俗人として彼は常に修道士の生活を送った」と好意的に高く評価しています。

 キリシタン史を学んでいると、イエズス会の巡察師バリニヤーノの信仰と物事の思考方法に共感することがしばしばあり、素晴らしい指導者として尊敬しています。
 私も神学生の時、英語ができず、ギリシャ語の教室を追い出され、説教学の教師は「神田君は話しは上手だが、話しに内容がない」と批評されました。落ちこぼれの中からイエス様によって救われましたが、この救われた喜びを人々に伝えようとしましたが、まだまだ人間が出来ていなかったのでしょう。しかし、神学校から「説教学」を教えてください。と頼まれた時、神様に感謝しました。
 「桃栗三年・柿八年。ばかな神田は40年」と自ら言っていますが、三箇アントニオを知り、神様は「知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選んだ」と書かれている聖書の言葉を思い出します。

 三箇アントニオは1622年9月10日、長崎で奥さんのマグダレナと、他の大勢のキリシタンたちと共に火あぶりや首を切られたりして殉教しました。そのことについて、パジェスは『日本切支丹宗門史』に詳しく記述しています。それによるとキリシタンとして処刑される人々は長崎西坂の丘まで連行されてきました。すべての殉教者たちは「真珠のように素晴らしい神の言葉をザクザクとまきちらし」沿道にいる人々に説教しながら刑場ので行ったそうです。
 彼らが処刑された場所は、26聖人が処刑された場所から、百五十歩海よりに離れた所です。夜明けから十万人余りの人々が一目見ようと丘を埋め尽くしていました。最後に火あぶりの25人の他に、斬首刑の殉教者が長崎から到着し、彼らと共に讃美歌を合唱しました。
ローマにあるイエズス会教会に展示されている「元和大殉教図」は、この時の様子が描かれた絵が展示されています。この絵を見ると、パジェスの記録と同じように、海の方から「、一、イエズス会の修道士、アントニオ・サンガ」と処刑されている人物を順番に紹介しています。 アントニオの妻は二列目の斬首の二十番目の人物として描かれています。

 アントニオは獄中で30名の未信者を導き、転んだキリシタンを再び信仰に復興させる働きをしました。
 彼が五十五歳で殉教する前に書きとめた手紙は、パジエスを感動させたことがわかります。人の目から人を評価する事の愚かさと、神様が人を選ばれる不思議さに驚きと感謝をささげたいと思います。