doingではなくbeing

日本の社会では、何かを「すること」、すなわち「doing」が重んじられることが多い。
その人がどんな仕事をしているか、何を頑張ったか、何かを成し遂げたか・・・等々。
 
確かに人間の生き方を考えるうえで、その人の行いは大切な部分でもあるが、
そのdoingばかりを重んじすぎると、
「仕事が出来ない人はダメ」、「何かをやっている人は良くて、暇な人は価値がない」ということになってしまう。
 
しかし世の中には、病気で働くことが出来なかったり、障害があってやれることに限りがあったり、年をとって動けなくなったりするなど、
しようとしてもdoingが出来ない人も多くある。
 
一方、「being」とは、「その人であること」すなわち存在や生命そのもののことであり、
特にキリスト教では、このbeingこそが大切であり、
人が何をしているかよりも、
その人の存在そのものにかけがえのない価値があるのである。
 
聖書には、
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節より)
と、何かが出来るからではなく、存在そのものを神さまが愛して下さっていると教えている。
 
イエス・キリストは、私たち人間のためにご自分の命を捨てて下さり、
一人一人を救おうとされている。
神様は私たちが出来ても出来なくても、どのような状態の時でも、
私たちの側にいて下さる方である。
「馬鹿な子ほど可愛い」という昔からの言葉があるが、
神様はまさに、そのとおりに私たち人間を愛して下さるのである。
神田牧師は 、その体験者でもある。
以前は人生の落ちこぼれであり、
神学校でも「いつになったら真面目になるのか」と周囲を言わしめたほどであった。
(神田宏大で検索してみて下さい。・・・どんな人に変えられたか分かるでしょう。)
 
人はその経歴や能力の有無には関係なく、
自分の存在の絶対的な価値を認められた時に、
心から安心し、自信を持ち、人間らしい豊かな生活を送ることが出来る。
 
クリスチャンの人生は、
自分が頑張って何かを「すること」(doing)ではなく、
神様が私たちの「存在」(being)を愛し、私たちをご自分の子どもとして愛し守り、やがて神様の作品として完成させて下さるのである。