故・神田牧師によるカウンセリング

 

政治も経済も人との関係も混乱し、すさんでしまうことの多いこの時代には、心が傷付き、心が病み、心のケアを必要とする人がますます増えています。 

野崎教会では、神田牧師が25年以上前から、そうした人々にカウンセリングを行っています。

カウンセリングは無料で行い、カウンセリングをする方がクリスチャンである必要はありません。

 

もし今、助けを必要としている方がおられましたら、教会へのお電話、またはこのホームページの「お問い合わせ」フォームにより、気がねなくご連絡下さい。

 

  

『躁鬱病 私の記録』解説より
        ほろ苦くも、温かなコーヒーの味
      …… カウンセラー側から見た闘病記 ……
 
野崎キリスト教会牧師 神田宏大   
 
   佐藤さんが、鬱病の記録を発表し出版することになった。そのゲラ刷りを読ませていただき、共に鬱病と闘った者として感無量である。
 なぜここまで良くなったか…それが読者の最大の関心事であろうから、カウンセラーの解説を載せる必要があると出版社からアドバイスされたそうで、カウンセリングに当たった私が解説を書く羽目になってしまった。
 
私のカウンセリング理念
 
  私の仕事は牧師である。必然的に私のカウンセリングは牧会カウンセリングと呼ばれる分野でのカウンセリングになってしまう。
 私が一般カウンセリングでは関与してはならない分野にも一歩も、二歩も踏み込んでいることに気がつかれる方もおられると思う。それは牧師としての信念に基づく、牧会カウンセリングであることを理解していただきたい。
 私が『こころの病』を患っている方のカウンセリングに当たる際の理念にしていることを述べよう。
 
時間と愛を惜しんではならない
 
 私の所に来られる方は比較的重症者である場合が多い。ほとんどの人は全てのことを試みたが、最後の手段として牧師である私の所に傷ついてやってくる。この際、病気が治るのならばと『藁をもすがる思い』でやって来るのだ。この時、多くの患者さんは新興宗教や、祈祷師に多くの金を巻き上げられた経験をもっている。故に、牧師であるカウンセラーの私にすら警戒心を持つ。そのために、二つのことを言っている。
 
1.『私はカウンセリングにお金は頂きません』
 英語でpriceless(プライス+レス)は文字通りに訳すと「価格はありません」と訳しそうですが、 正しくは「高価な、貴重な」と言う意味である。私の理念として愛の行動には価格を付けてはならないと確信するからである。
 
2.『お金ではなく愛の行動だから安心して、いつでも言ってください。来ることができない時にはいつでも訪問しますから』
 事実、真夜中に飛んで行かねばならない事態がしばしばあるが、お金の心配がなく、こちらの愛の思いが解れば遠慮なく電話してこられる。こころの病の方は夜中に不安や恐れにさいなまれるので夜中に訪問し、共に語り、時には添い寝をしてあげることすらある。患者はこのようないつでも飛んで来てくれるカウンセラーが自分についているだけでも大きな精神的な慰めになっている。
 このようなカウンセリングはカウンセラーとして越権行為であるが、牧師としての愛ゆえの行動と思っていただきたい。この牧師としての捨て身のカウンセリングが短期間に相手の心を開く鍵になっていると信じている。だから、誰にも真似ができる行為ではないことを知っていただきたい。
 この方法を取ると多くて三、四名の方々しかケアーできないし、体力的に精神的にこちらがまいってしまうことすらある。
 
常に相手の良き理解者となる
 
 イエス・キリストは「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ」人生を教えられた。これはすべてのカウンセラーにとって最も大切な原則ではないだろうか。ともすれば私たちは愛の押し売りを行い、土足で愛を届けようと相手の心に踏み込む場合がある。特に、宗教家のカウンセラーに多いのではないだろうか。
 
1.心を開いてもらう
 佐藤さんをカウンセリングする時に気をつかったのは、唯物主義の彼と、私がキリスト教の牧師である立場である。もし、この問題で彼の心が閉じられた場合はカウンセリングどころか、彼の性格からして攻撃にさいなまれる覚悟もせねばならなかった。そうなれば、彼の心に安らぎを与えるどころか、心の中をさらに掻き乱してしまう結果になることは予測できた。
 
2.相互援助の対話
私がカウンセリングする時には、援助してやろうという気持ちは少しもない。その人から学ばせていただく心でカウンセリングに通うと結構楽しい。実際、私は佐藤さんをはじめ、多くの患者さんから色々なことを教えていただいた。知的欲求の深い私は患者さんの専門分野を教えていただくことにしている。ヨットマンからはヨットの楽しさを。彼からは進化論や部落問題について私の知らない部分を学ばせてもらった。人は自分が役に立つことを喜ぶ、奉仕の性質が有るようだ。カウンセリングの相手は、彼が私の役に立っていることをに喜びを感じてくれる。今まで、自分は人の役にたたないダメな人間だと、自己卑下をしていた患者さんは、カウンセラーに喜ばれる援助をしているのである。一方的な援助は負い目だけで余計にこころの病の人に負担をかけてしまう。ここで彼らの知っている物事を聴き、学ぶことが良い対話のコミニケーションとなっていることに気づくであろう。
 このことについて淀川キリスト教病院の精神科医長(注・この本が出版された当時)の工藤先生は信夫先生は『援助の心理学』(聖文舎)で、ネパールで医療伝道をされていたドクター岩村のエピソードを引用して次の様に書いている。
 
「『ネパール人の健康を守るために』(助けてあげるんだ)と奮闘を続けていた岩村さんは、やがて失敗に気付いて、目標を訂正する。『ネパール人自身が守る。そのために僕らは肥やしになるのだ』。この言葉には、援助とか、奉仕とかいう行為について深い洞察力がある」。
 
援助活動の基本は、「その人が、その人になって生きていくための『肥やしになる』というところにあります」と述べている。
 工藤先生はさらに、「教師が『教えてやる』、親が『育てねばならない』といった姿勢に立つならば、本質を見失う危険性があるということです。人はお互いに、与えー受け、教えー学ぶという、相互関係の中で生きていくものなのですから」と、こころの病の方に対する援助姿勢について適切に述べておられる。
 なお、工藤先生をはじめ、ホスピスの柏木先生、淀川キリスト教病院の先生方には色々な助言を、忙しい最中にもかかわらずしていただき感謝していることも付け加えておきたい。
 
個人のプライバシーの保持
 
 個人の秘密については牧師として、カウンセラーとして必ず守ってあげることを約束しなければならない。この約束は法律によっても私に保証されている権限である旨を伝える。(刑事訴訟法149条[業務上知り得た秘密と証言拒否権])。
 この本の解説として、私がこれをためらったのは、佐藤さんのプライバシーに抵触することが避けられないと判断したからである。しかし、彼はこの著作の中で赤裸々に自分の状態を発表しており、彼の奥さんも出版を喜んでいるゆえに、私も彼のこの問題にタッチしても許されると判断したからである。
 
実際的なアプローチについて
 
 日本の心理学のリーダーの一人、河合隼雄教授は『宗教と科学の接点』(岩波書店)で、カウンセリングにおける宗教的位置について明確に述べている。唯物論者の彼に、牧師を父に持つユングにそったアプローチがどこまで可能であるか。フロイトの心理学的アプローチの方がより説得力があるのではないかとも思った。佐藤さんの主治医と対立的アプローチになれば逆効果になることを最も恐れた。しかし、主治医が彼に「仙人になりなさい」と助言しているので、安心して、その方向に従ってカウンセリングすることにした。 
 宗教的な色彩が強いが、聖書のことばが患者の治療に必要な慰めになることを信じて、否、ユングの言葉を借りれば「信じる。ではなく、知っている」と言えるほど、確かな思いで患者のアプローチに聖書を用いることもあった。私は誰にでも同じアプローチをするわけではない。時には、私は牧師の立場であるが、宗教的な神秘主義から引き離す必要がある患者が大勢いることも知っている。
 私がどのように佐藤さんをカウンセリングしたかを具体的に述べよう。
 
最初のアプローチ
 
 この本を読んで誰もが理解できると思うが、彼は対決型人間である。左翼活動、部落問題、中央政権の東北支配問題、精神病患者に対する差別問題。これらは、どれ一つを取っても著者ひとりでは重すぎる課題である。その中で彼は私にカウンセリングを頼みに来た。それまでは私の家内や私が手を差し伸べていたが彼は反応を示さなかった。私たちは彼のために心配して祈っていたが、彼のカウンセリング依頼は、牧師としての私にとっては祈りの答えでもあった。
 最初にカウンセリングをした時、非常に恐れたことは自殺念慮が大きい状態であったことと、牧会カウンセリングと呼ばれる、『聖書的カウンセリング』を受入れてくれるかどうかが課題であった。
 
 普遍的真理による聖書的アプローチ
 
 彼の自殺念慮はかなり大きなものであった。それを止めるための配慮として、霊的世界の普遍的理解を彼に語った。
「神を信じられない」との佐藤さんに、聖書の地獄や死後の滅びについて語っても、唯物論者の自殺念慮にブレーキをかけられるか、否かがわからなかった。
 そのために、彼に理解できる内容で語ることにした。私たちが注意せねばならないことは、その内容が正しくても、それを告げた故に、患者に混乱やプレッシャーをもたらせてはならないことである。
「自殺を本当にしたいと思っていますか?」と、佐藤さんに尋ねると、彼は首を横に振った。「自分の欲している方向ではなく、欲していない自殺をしようとしているなら、聖書に出てくるパウロの経験と同じですよ」と語った。
 使徒パウロはローマ書7章の中で、
 「私の欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行なっている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の内に宿っている罪である。私は、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか。」
と叫んでいます。彼の叫びこそが佐藤さんの叫びではないでしょうか。
 ここに親鸞の嘆きと同じ共感を佐藤さんも感じ取ってくれたらしい。
 今まで、自分の意志や力によって生きぬいてきた彼が、自分の意志でコントロールできない世界が存在することを知って欲しかったので、次のことを語った。
 「イエスの言われた聖書の言葉を言いましょう。
『盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために他ならない。
 私が来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。私は良い羊飼である。良い羊飼は、羊のために命を捨てる。』(ヨハネによる福音書10:10)
 この盗人がやって来ると、まず色々なものが盗まれます。自分の意志とは関係なく盗られてしまいます。健康な体や心が失われ、幸せだった家庭が、仕事が、平安が失われてしまうのです」と。
 つぎに、この盗人は、殺しにかかります。自殺念慮が起きるだけでなく、実際、佐藤さんのように自分の意志とは反対に自殺を図ります。さいわい、佐藤さんの主治医の投薬が適切であったために死ななかったのですが……。
 この病気が長引いた家庭では、盗人がその家庭を滅ぼしにかかるのを見ます。それは、一家心中の危険です。このような危険は、当人だけの苦悩ではなく、家庭の皆が同じ苦しみにさいなまれているからです。これらの家庭の多くが経験したことではないでしょうか。
 この盗人を、悪魔、サタンと気づかれると思います。
 
 全能者の手の中に守られる
 
 自分の力の限界を感じた時、『羊のために、命を捨ててまで守ってくださる』お方がおられることを信じられるならば大きな慰めになりますね。
 アウグスチヌスは、『告白』の中で、「あなたは私たちをご自身(神)にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と言っています。
 聖書の最も有名な詩篇23篇の中でダビデ王は、 「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが私と共におられるからです」と言いました。
 これは共に、全能の神に身をゆだねた人の安らぎの人生なのです。主治医の先生が、『仙人になりなさい』と言うのも、私が『全能の神の手にゆだねなさい』と言うのも同じことを言っているのですよ。」
 以前、苦悩したパウロが、悩める自我から解放されて、
「『私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである』と、言う心境にまで高められることが仙人になることに通じるのですよ」と語った。
 
自殺未遂の衝撃
 
仙台で薬を飲んだ彼の衝撃は大きかった。しかし、カウンセリングしている私のショックもかなり大きいものであった。彼が遠く離れた仙台にいるために手も足も出なかったとはいえ、彼が自殺行動を実行したのはカウンセラーとして最も悲しいことであった。自分の内に落ち度はなかっただろうか。愛の配慮に欠けていた所はないか。色々な反省が自分の心を重くしてしまった。
「カウンセラーが落ち込んでどうする」と、自分に言い聞かせ毎日のように通った。  自殺念慮がなくならない彼に、きつい言葉であるかも解らないが、
「佐藤さん。あなたは自分が何の役にも立たないで、人に面倒ばかりかけているので自殺したいと言い、それを実行もしましたが、何か間違っていませんか。
 あなたが、かっては左翼の活動家であり、今は部落差別をなくそうとして、差別されている人々と共に生きようと願っていたはずです。しかし、自分が弱い者になった今、自分は役に立たない、人に迷惑をかける者、だから死んだほうがいいと言っているならば、あなたは間違っています。
 あなたの前に鬱病で苦しんでいる人や、寝たきりで苦しんでいる病人に、『あなたは生きている価値がないのだ』と言っているのと同じことですよヒットラーがこのような障害者を国家にとって無用なものとして消し去ろうとしたことに怒りを感じるでしょう。あなたはそれと同じことを自分にしようとしているのですよ。これはあなただけの問題ではなく障害者に対する侮辱なのですよ。
 あなたが自殺しようとするならば、あなた自身が最大の差別者であることを知ってください」。
 以上のような、かなりきついことを言ってしまった。
 しかし、結果的には人間が人間であるが故に価値ある者であることに気付いてくれるようになった。
 
 コーヒーの温かさとカウンセラー
 
 私は聖書の説教をいつもしていたわけではない。
 この本の中で、私がコーヒーを沸かして彼の家に運んだ様子が何回か書かれている。このコーヒー・メーカーもこころの病でカウンセリングをしている青年がプレゼントしてくれたものである。この青年が以前、「神田先生は教会経営がへたですね」と、私に忠告してくれたことがあった。私は教会経営が下手で未だにマンションの一室を借りた小さな教会の牧師である。しかし、失われた羊を探す羊飼として、「失われたひとりの人」が見いだされ、『喜びに満ちた人』に変えられるならば大教会を築くよりも大きな仕事だと思っている。
 教会経営がへたであることは私の勲章でもあると自負している。
 最悪の状態の時にはコーヒーを沸かして佐藤さんの家に午前中に行くことにしていた。昼からは子供さんや、奥さんが帰ってこられて気がまぎれるが、朝、家族の人たちが学校に行って独りぼっちの寂しさにさいなまれていることを知っているので、コーヒーを沸かして雑談をしに行った。
 私はカウンセリングのテクニックなどは、その人を思う愛に比べれば小さな問題だと思う。一杯のコーヒーに託した温かさにカウンセラーの愛を知ってこころを開いてくれるならば素晴らしいことだと思う。その背後にある神様の愛を知り、教会の人々の親切を知ってもらえれば、さらに素晴らしい。教会の人々は自分たちが牧師の生活をささえてくれていながら、牧師の愛を独占しようとせず、いつ治るかわからないけれども、希望をもって神様を知らないで苦しみ病んでいる方々のために、私を送り出してくださっている。その教会の人々にも感謝したい。
 
聖書の言葉
 
 たといまた、私に預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移す程の強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。たといまた、私が自分の全財産を人に施しても、また、自分の体を焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
 愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」       (コリント人への第一の手紙13:2−8)
 
 ❈ この『躁鬱病 私の記録』は、(佐藤宏明著・柘植書房)から1988年に出版された時のものです。当時はマンションの一室を借りて教会活動をしていました。野崎には一つも教会がありませんでしたが、現在は8っの教会が野崎周辺にできました。
 あなたも連絡くださればカウンセラーとして、牧師として、あなたの良き相談相手になれると思います。