桃栗三年柿八年、馬鹿な神田は二十年

  桃栗三年柿八年、ということわざがあります。芽生えてから実を結ぶまでに、桃と栗は三年、柿は八年かかることから、何事も成就するまでにそれ相応の年月がかかるという意味があります。

 

  このことわざを使って、神田牧師はよく「桃栗三年柿八年、馬鹿な神田は二十年」と言っています。神田牧師は、神様の働きをするようになれるまでに、ずいぶんと時間がかかったのだそうです。 

 

  神田牧師は、多感な中学2年の時に、それまで元気に働いておられたお父様の仕事が窮地に追い込まれるだけでなく、お父様ご自身が胃ガンにかかってしまいました。

 

  病気が治る見込みがない状況の中で痛みに苦しむお父様の姿を見て、将来に絶望と不安を覚えてしまった神田牧師は、ぐれてしまって、毎晩出歩いて遊ぶようになりました。勉強も全くしないで、真面目に生きることが出来なくなってしまった日々。お母様や兄弟が彼のことを心配しました。そんな中でも、お父様は彼に「人のために生きろ。」と言っていたそうです。 

 

  やがてお父様が亡くなり、 生活環境が変わる中で、神田牧師はとうとう教会に導かれ、クリスチャンになりました。

 

  そこから、彼の生き方は180度変わり、神様のために生きたいと思うようになりました。 

 

  ところが、真面目に勉強をしようとしても、長い間やってこなかったので、勉強するのに大変苦労したそうです。漢字もなかなか書けず、なんとか高校を卒業した後も、神学校の英語やギリシャ語でも苦労しました。 

 

  そんな彼も、やがて牧師になり、神様のために働くようになりました。 

 

  今では、教会の牧会だけでなく、色々な方々のためにカウンセリングをしたり、神学校の講師をしたり、ラジオ伝道の働きや、キリシタン研究で講演や執筆をしたりするなど、多くの神様の働きを担っています。 

 

  聖書には、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇3節より)とあり、神様とともに生きる人は、やがて豊かに実を結ぶようになるとあります。

 実がなるまでにかかる時間は、様々でしょう。しかし、その時になると、必ず実を結ぶようになるのです。 

 

  私たちの人生にも、色々な困難や失敗や挫折があるかもしれません。しかし、神様を見上げ、神様と一緒に歩んでいくなら、恐れることはありません。

 

  たとえ私たちが弱くても、たとえ希望が持てないように見えても、神様に委ねていくなら、神様がその人の人生にいつか豊かに実を結ばせて下さいます。 

 

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネの福音書15章5節より)

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コメント: 1
  • #1

    マリア (木曜日, 20 9月 2018 18:22)

    今とても悩んでます。でも簡単には解決できない事が改めてわかりました。詩編ヨハネ福音書を読み心が安らぎました。そして神田牧師感謝します。